映画『名もなき野良犬の輪舞』応援記事置き場

2018年5月公開の映画『名もなき野良犬の輪舞 (原題:不汗党) 』応援用ブログです。翻訳は素人です。

【ビョン・ソンヒョン監督インタビュー】ミステリア 13号[前編]

ビョン・ソンヒョン監督インタビュー

出典:雑誌『ミステリア』13号  2017年7月発売

原文:

中間までは下記リンクにて公開されているため全文訳、以降はキム・ヨンオン編集長より許可をいただき、雑誌内容を基にしての抜粋・要約になります。本記事の掲載をご快諾くださったキム編集長、及びご協力賜りましたキム・ヒョジン教授にこの場をお借りして御礼申し上げます。진심으로 감사드립니다!

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本記事は全体にネタバレを含みます!!ご鑑賞後にお読みいただくことをお勧めします。

*前編・後編に分かれております。

 

 

心捕らわれた人々。『不汗党』ビョン・ソンヒョン監督インタビュー。



『不汗党』は、様々な理由から多くの映画を想起させる作品だ。アラン・マックアンドリュー・ラウの『インファナル・アフェア』、マイク・ニューウェルの『フェイク』、パク・フンジョンの『新しき世界』、ジャック・オーディアールの『預言者』、アン・リーの『ラスト、コーション』や大島渚の『御法度』まで。どこかで見たように感じさせる設定は、その馴染み深さ故に物語への取っ掛かりとなる安全装置でもあり、一方で陳腐な反復作としてフィルモグラフィ上の汚点となる可能性もある。

そのスリリングな綱渡りにおいてビョン・ソンヒョン監督の潜入捜査ノワール『不汗党』は、定型を捻り、変奏を加えるという戦略は、どのようなやり方であれ一定の成功を得られることを立証してみせた。すなわち『不汗党』は、潜入捜査官の不安感を排除する代わりに切実なメロドラマを物語に引き込み、作品をこれまでの韓国ノワール映画には見られなかった情緒で埋め尽くしてみせたのだ。

公開前はカンヌ国際映画祭への招待作に選ばれたことで注目され、公開直後は映画外の論難を浴び、少し時間が過ぎた後は本作品に愛情を注ぐ熱烈なファンダムが話題になって再び関心を集めていた映画『不汗党』に関して、長く沈黙を守ってきたビョン・ソンヒョン監督と対面し、質問を投げかけた。


-前作『青春とビート、そして秘密のビデオ』と『マイPSパートナー』を観ると、男たちが交わす日常的な駄話のディテールが引き立って見える。俗に言う「タランティーノスタイル」というか、男たちが休みなく、キャッチボールのようにくだらない会話を繰り返す場面のことだ。

映画における無意味な会話が好きだ。初稿でたくさん書いておいて、一番面白いと思う部分だけを残して減らしていくやり方を取る。実は、『マイPSパートナー』では個人的に後悔している台詞がいくつかある。今振り返るとマッチョイズムが強く、女性卑下的なものが多かった。一昨年のクリスマスイブにテレビで『マイPSパートナー』を放送してくれたので、公開後初めて観たのだけど、恥ずかしくなった。特にマッチョイズムが強く出る台詞を多く割り振られていたキム・ソンオ先輩が、とても実感をこめて演じてくださったので、一層そう感じられたんだと思う。

-『青春とビート』での「人は100%明るみに出た過ちについてしか謝罪しない。面白いのは、その過ちが表に出るまでは罪悪感をほんの一欠片しか感じないってことだ。状況は何も変わってないってのに」というソ・チャンデ(ポン・テギュ)の台詞が、『不汗党』のチョン・インソクチーム長の台詞「過ちは表に出るまで過ちじゃない。こんなクソみたいなことにぶち当たったのが間違い、それこそが悪なのよ。半端な罪悪感なんか抱くんじゃない。でないと自分から破滅するだけ」に発展したようだった。登場人物が犯した過ち、失敗、罪を正すタイミングを逃し、それによってその後の道筋が完全に歪んでしまうという展開があり、『青春とビート』は『不汗党』を予言する作品だったのかもしれないと感じた。罪悪感についての映画というか。

僕は罪悪感を強く感じる方だ。そのせいで幼い頃から苦しめられ、後悔も多かったので、そういう点が映画を作るにあたって影響したのかもしれない。
自分はシネフィル出身ではないと思う。映画を本格的に、意識して観るようになったのは演出を専攻しようと決心してからだったが、フラッシュバックが上手く使われている映画は観るたびにとても映画的で面白いと感じた。短編を作りながら少しずつ自分でも試みて、フラッシュバックで話を紐解いていくやり方に少し自信がついた。それからも映画でフラッシュバックが用いられているのを見かける度に、例え映画自体はイマイチでも、トランジションの部分に関してたくさんメモを取り、どうしたら活用できるか思いを巡らせた。

-『不汗党』は最初から「非日常的」な映画でもあり、彼らのやり取りする台詞も前作とはまるで違うトーンである必要があった。その変化を試みながら、どのような覚悟だったか。

『不汗党』がそれまでの作品とまったく異なっていたわけでもない。一番最初に撮った短編はノワールに近かった。これまで短編3本、長編3本を撮ったが、その中で一番の変わり種は『マイPSパートナー』だ。あの作品を書くまではロマンティックコメディを観たこともほとんどなく、興味すらなかった。特にキム・アジュンさんが演じた役の台詞を書くのに苦労した。僕なりに悩みながら書いたが、あまりに「男性的な台詞」だったと後になって気付かされた。ロマンティックコメディ映画を一生懸命研究して、どういうタイミングでどういう台詞を言うと観客の反応が良いのかを学んだ。

-では、潜入捜査ノワールのどのような面が魅力的だったのか?

パク・フンジョン監督の『新しき世界』を観て、韓国でもこういう映画を作れるんだと思った。周りからは似たような映画を作れば失敗するぞと止められたけど、僕は違うものを撮れると突っぱねた。元々『インファナル・アフェア』などの潜入捜査ものを好きだったけれど、いつも気になることがあった。ああいう映画の共通点はアイデンティティに関する葛藤じゃないか。『フェイク』のジョニー・デップアル・パチーノ、『新しき世界』のチョン・チョンとイ・ジャソンの関係を見ながら、「僕ならそのまま話してしまう気がするけど何で隠すんだろう?職業意識がそんなに大切なのか?」という疑問が浮かんだ。僕は相手との関係をもっと大事に思うので、僕なら告白してしまいそうなところだけど、物語としての面白味のために最後まで正体を隠しているのだろうかと考えた。もし潜入捜査官が自分の正体を途中で明かしてしまえばどうなるだろう?一連の潜入捜査映画をもう一度見返してみたが、そういう展開は見つからなかった。それなら僕が、一度そういう展開を持ち込んでみよう、その上でメロとしての描写で話を語ってみようと考えた。
多くのノワール映画、例えばマーティン・スコセッシの『ミーン・ストリート』であるとかデヴィッド・クローネンバーグの『イースタン・プロミス』を観れば、誰でも男たちのメロ、クィア映画の側面を感じるだろう。『不汗党』でもメロを中心に据えたかった。友情や義理としてラッピングされた「ブロマンス」ではなく、誰が見ても、肉体的愛とまでは言わなくとも感情的な愛を感じ得る関係ということだ。スタイルだけでなく感情的な側面から、どう既存の潜入捜査ものと違う作品を撮るか悩み、多くのメロ映画に当たった。もちろん周りからは、ジャンル的な約束事としての芯のある緊張感が失われることに関して懸念の声があったが、僕は逆に潜入捜査官の不安感が入り込むことを警戒し、思い切って省略した。

-もう少し詳しく聞きたい。「潜入捜査官のアイデンティティの混乱」という要素を抜きながらどう話を続けるか、という観点において愛という感情を選んだのか、もしくは最初から愛という感情を中心に据えようと考えたために「ヒョン、僕は警察だ」というヒョンスの台詞が早々に登場することになったのか。この台詞は映画において一時間も経たないうちに登場する。

メロを表現することが一番重要だったが、感情的にどうメロとして感じられるか、という点に関しては大いに悩んだ。実は『不汗党』は、ハン・ジェホとチョ・ヒョンスが交流する場面がそう頻繁には出てこない。二人の間で何かが重ねられていく場面を省略したため、彼らの感情の流れを観客が飲み込めなくなってしまうのでは、と思った。だからハン・ジェホとチョ・ヒョンスが碁石はじきをする場面などは、撮影前日にさっと台本を書いて新たに差し込んだんだ。だが「ヒョン、僕は警察だ」以降二人の間がどうやって深まったのかについては省略し、観客たちに想像してもらえるよう余地を残そうと考えた。あの場面の後観客は当然疑問を抱くだろうが、それに関して、「まさにこれ」という解答を提示したくはなかった。次の場面で解が出てくるだろうと感じさせながら、その答えをずっと後に引き延ばして話を紐解いていくやり方を取れればと思った。

-通常潜入捜査ものでは、正体を隠した主人公を中心として、彼を利用する者、疑う者の間での力学関係が次第に強力な、複雑な様相を呈していく。ところが『不汗党』に関しては、時間が進むほどに話を単純化させ、ジェホ-ヒョンス間の感情へと集中させていった。話の核心を、ジェホがヒョンスの正体に勘付くかではなく、ヒョンスがジェホの正体に気づくかどうか、それにより二人の関係が破局を迎えることになるのか、という点に置いた。

最初構想したときはヴィランの役割、つまりコ・ビョンチョル会長の比重がより大きかった。実際シナリオを書いてみると長くなりすぎたので、取捨選択の必要があった。ヴィランの存在感を大きくして葛藤を増幅させるよりは、ジェホとヒョンスへ集中させる方を採った。チョン・インスクチーム長に関してももっと話に介入できる余地が大きかったが、エンディングはジェホとヒョンス、二人だけの感情によって幕を下ろさせたかった。これは『ロミオとジュリエット』のような話だと度々言及したのもそのためだ。
もちろん異なる意見も多かった。例えばエンディングシーンがもっと派手であるべきでは、『レオン』でもレオンがマチルダを救うために大掛かりなアクションを見せたじゃないか、という意見が出てきた。だけど僕は、アクションを最低限にして、ジェホとヒョンスが互いに顔を合わせどういう会話をするか、どういう感情が行き交うかにより集中すべきだと考えた。

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以降は抜粋・要約になります。

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■チェ船長の事務室のアクションシークエンスの後、ジェホとヒョンスの会話を(盗聴装置を通して)盗み聞きするチョンチーム長に関して。

チョンチーム長が二人の親密そうな会話を聞くことが、ヒョンスに袋を被せて拉致するテストの場面に繋がっていくよう設定した。二人の会話を真剣に聞くというよりは、雰囲気を薄っすら感じ取る感じだ。微笑ましい会話の直後にヒョンスがチェ船長を残忍に暴行することでアイロニーが生じ、チョンチーム長から見て、ヒョンスがジェホ化していっているのではと疑うようになる。もちろんヒョンスの母の死の真相について知ったときから疑ってはいただろうが。ヒョンスが駒としてまだ有用かを見極めるためにテストを行い、それをもってようやく「こいつはまだ使える」と決めるんだ。

チョンチーム長は通常「中堅男性俳優」が演じそうなキャラクターだが、それを女性にした理由、またチョン・へジンがキャスティングされたことによって変わった点は。

深い理由があって女性と決めたわけではない。女性的な要素を排除することにむしろ注力した。家族のエピソードも存在したが、すべて削除した。女性キャラクターを書くと、その女性がどうやってこの地位まで上ってきたか、男たちとの関係においてどう動くのかという点に関して無闇に説明してしまいがちになるが、そうはしないようにした。チョンチーム長が一人の独立した人間として見えるよう願った。
チョンチーム長の描き方に関しては悩んだ点が多かった。チョン・へジン先輩がキャスティングされたことは本当に幸運で、先輩とは非常に多くの話を交わした。彼女はオーラがとても強い人で、男性と立ち並んだとき十分に力があるよう見せることができた。初めはチョンチーム長もヴィランとして、荒々しく頑強なキャラクターと考えていたが、撮影が進むにつれもっと鋭く、シャープな人物であるべきだという考えに変わった。下品な悪態を吐くビョンガプ、必要とあらば敵対する人間に熱した油をかけるジェホに対し、力対力、金槌対金槌ではなく、尖った針のような人物であるべきだと考えた。平面的な悪党としては見せたくなかった。それを最初のうちは掴めずにディレクションを中間から変えたため、へジン先輩を混乱させてしまい大変申し訳なかった。

チョンチーム長というキャラクターに関しては、それでもなお、もっと勉強しなければならなかったという後悔がある。船の積荷から麻薬の代わりにアダルト製品が発見され彼女が男たちに冷やかされるという場面があるが、安直で安易な選択をしたと思っている。一方で、大抵はああいう展開をクライマックスに配置するケースが多いが、そうはしたくなかった。非常に手短に終わらせたかった。

チョンチーム長のパワーやカリスマを表現するに当たり、チョン・へジンの演技トーンは荒々しいものではなく、声もむしろ静かで落ち着いている。そのため観客としてはチョンチーム長のことを、映画序盤において「理性的だ」「正しい人間だ」と錯覚することになる。

撮影の際は声のトーンがもう少し強かったが、ADR(アフレコ)で下げてもらった。映画を観てそのトーンが良いと感じられたなら、すべてへジン先輩の功績だ。ヒョンスに「お母さんの腎臓、探してあげる」と言う場面では、親しみを込めた言い方をしてほしいと頼んだ。このキャラクターが本当に正しい人物なのか混乱させたかった。

個人的に一番後悔しているディレクションは、ジェホを轢いた後チョンチーム長がハンドルを掴んで首を垂れるシーンだ。あそこはもっと冷徹であるべきだった。自分がしたことに関して迷いを見せてはならなかった。この映画には、ジェホがコ・ビョンチョルを殺すときに明かりを消してから銃撃戦を始めたように、ある種見栄を張る部分がある。チョンチーム長もそのようにすべきであり、倒れたジェホをただ淡々と見つめて車を降りるべきだった。あの場面でチョンチーム長が突然人間的になってしまったので後悔している。

■麻薬密輸の襲撃が失敗に終わった後、チョンチーム長がヒョンスとジェホの写真を眺める中で何かを悟ったような表情を浮かべる。ここで彼女が何を察したのか曖昧に感じたが。

あの写真に特別な意味があるというよりは、写真をじっくり見ているうちに、ジェホとヒョンスの間に生まれた感情のおかげで自分が一杯食わされた、と悟ったんだ。

元々は襲撃失敗後、チョンチーム長が男性浴場に押し入ってビョンガプを宥めすかし情報を引き出すという場面があったが、写真を見ながら状況を推察するほうが良さそうだと考えて削除した。

浴場シーンは少しコミカルで、エンディングへ疾走する感情の流れが途切れかねなかった。またその場面を無くすことで、ビョンガプが(濡れ衣によって)より無念に死んでいくように見せたかった。そうしてこそ、ビョンガプの殺害場面でジェホが崩れていっていることをより強く見せられるだろうと思った。

■最初の印象とそれ以降に明らかになるキャラクターが異なる人物が多く、ギャップが興味深い。例えば(刑務所の)保安係長は、暴力的な状況であっても全羅道訛りのおかげで口調が物腰柔らかく感じられる。

保安係長を演じたチン・ソンギュ氏は、「キム・ソンハン派に通じるキャラクターだから全羅道訛りが必要だ」と伝えたら(訛り方を)何バージョンも完璧に準備して来られた。さらに潔癖症という設定も提案してくれた。ジェホと揉み合った後で係長が手を消毒するというのは彼のアイデアだ。元々は煙草を吸う設定だった。ジェホとヒョンスに脅迫される場面でファブリーズを振りまいてからソファに座るというのも、彼が提案してくれたものだ。本当に面白かった。僕は元々そういうディテールが好きなんだ。

 

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*後編に続く。

 

翻訳:@TheMercilessJPF

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